トップインタビュー『この人に聞く』

(1)創業の経緯 |(2)起死回生の経営改革 |(3)今後の展開

株式会社エリアクエスト代表取締役 清原 雅人

聞き手:太田三津子(不動産ジャーナリスト)

事業用不動産を対象に、貸し主、借り主のベストマッチングを支援するエリアクエスト。貸し主にはキャッシュフローの最大化を、借り主には快適な環境の提供を目指している。清原雅人社長は創業3年1カ月で東証マザーズにスピード上場を果たした後、市場の悪化などの逆風にも遭遇するが、2008年に起死回生の経営改革を断行、再び成長路線に乗せた。「常に当事者意識をもって、貸し主、借り主のために全力を尽くす」を旨とする清原社長に、13年間の軌跡と起死回生の経営改革、今後の展開について聞く。

『この人に聞く』(1)創業の経緯

――まず、創業の経緯からうかがいます。清原さんは元野村証券の証券マン。どんなきっかけで大企業を飛び出そうと思われたのですか。

1997年11月、山一證券の自主廃業がきっかけです。当時、私は野村証券に在職していましたが、時代が大きく動いていることを実感し、独立して事業を始めたいという気持ちが芽生えました。そこで同じ想いを抱いていた同僚と会社を飛び出し、新しい事業に挑戦したのです。

――不動産業界を選んだ理由は?

ちょうどその頃、米国の不動産証券化の仕組みを日本に導入する動きがありました。不動産投資信託(REIT: Real Estate Investment Trust)ができ、日本版REIT市場(J-REIT)が開かれれば、不動産業界も不動産市場も大きく変わる。さまざまなビジネスチャンスが生まれるだろうと思ったのです。
 米国のゴールドラッシュのとき、砂金を掘る人より、彼らにスコップやジーパンを売った会社が儲かったと言います。比喩的にいえば、我々もスコップやジーンズを売ろう、と。そこで、J-REIT市場が誕生したらどんなビジネスが必要になるか、そのなかで我々ができるビジネスは何か、考えました。

――その結果、プロパティマネジメント(不動産の管理運営代行)に白羽の矢を立てたのですね。

ええ。米国の不動産証券化の歴史をみると、一旦、不動産市場が破綻して所有と経営が分離し、REIT市場が誕生した。それに伴い、REITやファンドのビルのキャッシュフローを最大化するため、合理的な管理運営を代行するプロパティマネジメント会社が興隆しました。
 プロパティマネジメントとは建物の物理的なメンテナンスに始まり、テナントの誘致、賃貸契約にいたるまでの交渉、家賃・共益費の回収、トラブル対応などを行うものです。日本に J-REIT市場ができれば、米国と同様のことが起きると予見したのです。

――個人オーナーのビルや中小の店舗ビルを主なターゲットにしたのはなぜですか。

大手のビル事業者やREIT、ファンドなどは、黙っていてもプロパティマネジメント会社がつく。では、PM市場で空いている領域はどこか? 個人が所有あるいは経営する中小ビルや店舗ビルです。こうした物件も、REITやファンドのビルと競争していくにはプロパティマネジメントが必要になります。
 さらに個人のビルも相続などで共有化が進んでいました。また、コンプライアンス意識の高まりから、貸し手側の責任が厳しく問われるケースも増加した。こうした社会的背景からみても、今後のビル経営には専門的、総合的な管理運営サポートが必要とされるはずだと考えたのです。

――2001年にはJ-REIT市場が誕生し、プロパティマネジメントという概念も広がった。まさに読み通りの展開になりました。

ええ。同僚と設立したクエストプロパティーズは、お客さまのビルのキャッシュフローを最大化することを目的に、「リーシング(テナント付け)」と「トラブルの防止と解決」、「設備対応」を事業の柱に据えました。
 こうした課題に個々に対応する会社はこれまでもありましたが、この3つを総合的に提供する会社はほとんどなかった。狙いが当たり、順調なスタートを切りました。

――ところが、1999年末にその会社を飛び出してしまわれた…。

私は、先ほど申し上げた経営方針を地道に貫きたいと思っていましたが、同僚と複数の役員は、それよりもファンド組成による早期成長を目指したいと考えました。意見が食い違うようになり、自分自身で会社を興そうと決意したのです。そこで、2000年1月、私についてきてくれた社員とエリアリンク(エリアクエストの前身)を設立。これが私にとって本当の意味での「創業」になります。
 少し回り道になりましたし、辛い思いもしましたが、無駄ではなかった。クエストプロパティーズの経営理念はそのままエリアリンクで引き継ぎ、1年後に経営が傾いたクエストプロパティーズを買収して、エリアクエストと社名変更して現在に至っています。

――このとき、ファンドビジネスに参入していたら今はなかっただとうと思います。ファンドバブルに乗らなくて正解でしたね。ところで、1999年11月にベンチャー企業など新興企業の株式市場マザーズが創設されましたが、エリアリンクを創業するとき、マザーズ上場を意識していたのですか。

最初から上場を目指していましたし、上場までの設計図も明確に出来ていた。会社を登記する前に、取締役候補や監査法人にもビジネスプランをチェックしてもらい、万全の形でスタートしたのです。

――33歳の若さでどうしてそこまで用意周到にできたのか、不思議です。

野村証券時代の経験と知識が役立ちました。営業マンの多くは手数料収入を稼ぐことに一生懸命でしたが、私はそれよりも経営や上場の仕組みに興味があったので、経営やBS/PLをかなり真剣に勉強していました。
 未上場企業を担当する部署で上場のお手伝いもさせていただき、実践的な経験も積みました。ただ、不思議だったのは、業績がいい会社であっても、上場を勧めると「5年後くらいに」とおっしゃる。そこで、なぜ(上場まで)5年もかかるのか、どうすればスピード上場できるのか、研究しました。

――スピード上場のポイントはなんですか。

「安定性」、「継続性」、「独立性」が確保されているかどうかです。多くの企業が上場まで時間がかかった主な理由は、資本関係や親会社子会社関係の整理です。ですから、会社をつくるときから3つのポイントを押さえ、2003年2月にマザーズに上場しました。創業3年1カ月の上場は歴代9位でした。

――創業1年目から黒字にされました。

全員営業体制を敷きました。首都圏の乗降客数3万人以上の駅前に焦点を絞り、全員でビル情報を集めて、貸したい人と借りたい人のマッチングを図ったのです。その結果、初年度、仲介手数料で4億円を売り上げることができました。
 社員の頑張りに加えて店舗市場も好調でした。2000年は勢いのあるフランチャイズチェーンが続々と誕生し、出店先を探していたのです。FCバブル、居酒屋バブルと言われるような状況下、いい立地さえ押さえれば、ドラッグストアや居酒屋がこぞって出店してくれた。頑張れば頑張るだけ成果が上がるという時代だったのです。

――首都圏の乗降客数3万人以上の駅前に絞った理由は?

極論すれば、店舗は1に立地、2に立地。いい場所を押さえたところが一番強い。しかし、こうしたビルのオーナーの名簿はありませんから、新興の我々はオーナー様を探すところから始めなければなりません。限られた人数で効率的に情報を集めるために、乗降客数3万人以上の駅前にターゲットを絞ったのです。ひたすら足で情報を集め、ビルオーナーの皆様にお目にかかり、空室や家賃の滞納などがあれば誠心誠意お手伝いさせていただく。そうした積み重ねです。

――順風満帆の滑り出しですね。

業績は上がりましたが、今思うと、社員には随分無理をさせたと思います。2001年には60人規模になったものの、辞めていく社員も多かった。営業は最初が一番大変です。契約実績が積み上がり、リピートが来るようになれば年々目標達成もだんだんラクになっていくのですが、そこまで我慢して頑張れる人は少なかった。私も若かったので数字だけでなく、ご提供するサービスの質も高めようと必死でしたから、社員に対する要求水準も高かったのです。

――営業マンは歩合制ですか。

固定+歩合ですが、売上げ歩合は1%に抑えました。売上げ歩合が大きいと、営業マンのモラルが低下しかねない。それではお客さまに本当に届けたいサービスが届かないと思ったからです。
 ちなみに現在の売り上げ歩合は一律5%です。幹部も定着し、社員にも企業理念が浸透してきたので、(歩合を上げても)モラルハザードの心配はないところまできたからです。ビルの管理やサブリースの契約をとれば、売上げ歩合が10%になるテーブルもつくりました。頑張れば5~7年で年収1000万円も可能です。

――創業当時と現在では経営理念は同じでも、経営戦略や組織体制、それに清原さん自身の考えも随分変わられたように思います。次回はその辺をおうかがいしたいと思います。

(2)起死回生の経営改革 に続く

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